聖霊が教える

礼拝説教【聖書 ヨハネによる福音書14:17-27】

 今日はキリスト教三大祝日の一つである、ペンテコステ・聖霊降臨日です。主イエスが十字架にかけられたのは、ユダヤの〈過越の祭〉の時でしたが、それから50日目がペンテコステ(五旬祭=50日祭)です。出エジプトから数えて50日目にシナイ山でモーセが十戒を与えられたことを記念する、律法授与記念日であり、またこれは麦の収穫を祝う収穫祭でもありました。ちょうどその日イエスの復活を信じて集まり祈りをささげていた人々の上に、主イエスから約束されていた聖霊が降り、外の人々へ向かって福音が公に語られるようになりました。この出来事は使徒言行録2章に記されています。注がれた聖霊によって力を得たイエスの弟子ペトロは、初めてキリストの福音を公に人々の前で説き明かします。つまり宣教する教会の始まり、教会の誕生日となりました。
 聖書箇所はペンテコステに関する4箇所が選ばれていた中から、ヨハネによる福音書を選びました。ペンテコステそのものの記事は使徒言行録2章だけですが、「霊」または「聖霊」に関わる箇所は多数あります。先週はキリストの復活後40日目の〈昇天日〉(今年は5/21)について話しましたが、それ以降はキリストが天上=神のもとから「聖霊」をとおして教会と人々にはたらきかけ、神との関係が終末の日まで途切れることなく続くことを示しているのです。
 15節:今日の箇所の見出しには[聖霊を与える約束]という見出しがついています。福音書の文脈では、イエスの十字架の死を前にした「告別説教」の中に置かれています。直前にイエスは[父のもとに行く]と予告しますが、この時点では弟子たちにはそれが何を意味するのかまだ理解できないでいるのです。しかしイエスは、もし弟子たち(=後の教会信徒らの意味も含む)が神との信頼関係を保ち続けるならば、姿は見えなくなっても[弁護者]を遣(つか)わし、父なる神が「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という約束をします。そしてそれが[聖霊]であることを明らかにします。[弁護者]は元々「傍(かたわ)らに呼び出す」という語に由来し、自分一人では対処できない苦難や問題に対して、「助け手」として呼び出される者という意味です。口語訳聖書では「助け主(ぬし)」と訳していました。傍らに立ちその人の相談を受け適切な支援をするのですが、その活動内容だけを指しているのではなく、精神的、心理的な面でその人を励ましたり勇気づけたりするという意味も含まれています。厳しい状態におかれた人のそばに来て慰め、その心、魂を支える者を意味しています。(こんにちの、その人の正当性を弁護し権利や利益を主張したり、罪や損害を軽減するために算段をするような意味の職業的弁護士とは異なります。もちろん弱い立場におかれた者の心情を汲み取り、正義のために活動することを使命と感じて活動する弁護士がおられることは言うまでもありません)。この[弁護者]の理想的な、そして具体的な姿は、イエスの活動において示されています。失われた者、支えなく排除された者の傍らに立ち、その一人の存在を回復する、真の弁護者としてのはたらきで、その人に生きる希望を与えるのです。
 17節:しかしイエスはそうした弁護者としての自分自身ではなく、それに代わる「別の弁護者」すなわち[霊]を送ると言います。[真理の霊]の[霊]という用語は、風や息に由来する言葉で、見えず触れることはできないが確かな神の働きを表しています。ここでは特にイエスと等しい人格を持った[霊]を指しています。イエスはずっと肉体を持ったまま地上に居続けることはできないが、その代わりに[霊]=聖霊として[あなたがたの内に]一緒にいる、と約束するのです。それは、神がイエスを世へと遣わして救いの計画を明らかにしたように、また神は霊を人々の間に遣わして、自分の意志を実現しようとしている、ということです。
 18節:[みなしご]=孤児という言葉が使われますが、親、保護する者がいないことです。ここはその背景としてこの福音書が読まれた紀元100年前後の頃の教会の状況を考えておくべきでしょう。イエスの地上での活動から70年ばかりが経過し、弟子たちなど直接イエスを知る者もいなくなります。そして終末(世の終わりの日)が近いとその完成の時を緊張の中で待っていてもなかなかそれは来ない、周囲からの圧迫や迫害も起きている中で、キリスト者たちは「本当に神は、イエス・キリストはわたしたちの内に居られるのか」といった不安や疑いが生じていたことが考えられます。これは「神を試みる」=「まことに神はわたしたちの内に居ますか」という問いです。これはイスラエルの民が出エジプト後の荒野の40年間や、バビロン捕囚の50年間において経験した同じ信仰的テーマです。この問いへ答えるイエスの言葉でもあります。みなしごにしない、そんな孤立無援の状態のまま放っては置かないと、イエスの側からの強い決断を持った宣言、そして約束として語られています。その約束を受け容れた者は、イエスとの霊による深い関係の内に置かれるというのです。
 19節:[しばらくすると世はわたしを見なくなるが、あなたがたは見る]とは、視覚的な[見る]ではなく、認識する、心の内に確かなものとして理解するという意味です。福音書の文脈ではこの後、イエスは十字架の死によって失われます。[世は…わたしを見なくなる]は、肉体の死という意味だけでなく、人間的な価値観(見えるものや肉体的、物質的なものだけを基準に物事を判断するような考え)においてはイエスを認めなくなる、という意味が含まれています。しかし[あなたがたは見る]は、イエスを信じる者は、やがて復活のキリストに出合うということをあらわしています。そしてさらに、その後の聖霊を通しての来臨を展望する言葉となっています。最終的には、終末時の再臨も視野に入れられています。それが一時的なイエスとの再会ではなくて、[わたしが生きているので、あなたがたも生きる]と言うように、イエスは生き続け、霊を送って[あなたがた]力を与え続けるので、あなたがたも生きる、とイエスの復活の命と信仰者の霊的な命がつながっていることが示されています。このことを次の節から順次重ねて展開していきます。
 20、21節以下:この部分を少しまとめて話しますと、イエスが神の内にいる、イエスの内に信徒がいればイエスも信徒のうちにいる。そして、イエスの掟(教え)を守る人はイエスの愛の内にいるし、神はその人を愛するし、またイエスもその人を愛す。このように神、イエス、人の、互いが自分の内に相手がおり、相手の内に自分がいてつながり合っている、という関係です。ここでの[愛]はギリシャ語では神の愛について用いられる「アガペー」で、神の完全でしかも無償の愛を表していますから、神とのそのような愛の関係が結ばれることを示しています。こうした愛による神との相互的な関係こそが、「信仰」(信頼的関係)ということなのですが、文中では特に[愛する]というイエスの表した愛の具体的な行いにそれが依拠していることが強調されています。
 22節:ここで突然弟子のユダ(イエスを裏切ったユダ以外にもう一人のユダという名前の弟子が、ルカとヨハネには記されています)が質問します。(復活の)イエスはなぜ弟子たちだけに現れて、世のすべての人に自分をあらわさないのですか?という問いです。これは17節とも関係しているのですが、世の中に復活のイエスが現れてすべての人を裁いてくれればよいのに、という現世的(この世的)なメシア到来への期待です。それは困難に直面した時に、メシア、神が来て一気に問題を解決してくれればよいのに、という期待です。そんな期待がわたしたちの内にもあるかも知れません。この問いにイエスは直接答えてはいません。
23節以下:で、わたし=イエスを愛し、その言葉を忠実に行っていくことへと導きます。あたかも、神に願って苦境を一気に救ってもらおうと期待することでなく、今あなたの前にある課題に神の愛をもって関わっていく、ひたむきに愛の実践を信徒たちがなしていくために、そのわざを勇気づける聖霊を送っているということではないでしょうか。
26節:[弁護者]としての聖霊が、それを受けた人々に全てのことを教え、イエスの語ったことを思い起こさせる、という言葉は、(使徒言行録2章の)聖霊降臨日の体験と結びつけられています。そしてまた、「イエスが話したことを思い起こさせる」というのは、イエスの復活信仰を表現しています。復活信仰が、ただ単に死んだイエスが生き返ったという過去の出来事の承認ではなく、イエスの教えを自分の心の内に受け入れ、それを今まさに、自分にイエスが語りかけていると感じとって具体的に行おうとすることであり、それが生きた復活信仰であることを示しています。
 27節:まとめの部分で、聖霊がもたらすのは[平和]、イエスが示した天の国の平和であることが示されます。それは心の内の平和であり、また終末的なあらゆる存在が神に祝福されて喜んでいる状態の包括的な平和です。ここではギリシャ語のエイレーネーという語ですが、ヘブライ語のシャロームという言葉と等しい意味です。この節でも、[世]=すなわち人間的な平和ではないことが言われます。当時の「ローマによる平和」(Pax Romana)と呼ばれた圧倒的な権力・軍事力による支配的な平和とは、全く質の異なる平和であることが批判的に確認されています。この直前の箇所では、イエスは弟子の足を洗い、このように互いに仕え合いなさいと教えます。このあとにはぶどうの木の譬えが語られ、イエスにつながっていることでよい実を結ぶことが示されています。このように互いが愛をもって仕え合うなかにイエスは共にあり、神と人とが霊的な糧によって結びつき力づけられていることが教えられています。そこに真の平和があるのです。
 見えるもの、手のうちに利益として得るもの以外に関心が薄れているわたしたちの現実です。物質的な保障によって安心を確保しようと右往左往する日々です。ペンテコステのこの日、神、主イエスとの霊的なつながり、他の被造物との命の霊的なつながりの中でわたしたちが生かされていることに心を向ける時としたいと思います。相互に愛を注ぎ合い、仕え合う中で、互いを満たし合うような生き方が求められています。そしてわたしたちは神からの弁護者、聖霊の力を受けて、イエスの愛によって平和を創り出すよう導かれています。この恵みを受け、生かしていきたいと思います。
(西嶋佳弘)