その日の労苦

礼拝説教【聖書 マタイによる福音書 6:25-34】

マタイによる福音書では続けてイエスの「山上の説教」を学んでいます。今日の箇所は6/30に既に一度取り上げましたが、32節までとしていましたので、今日は33,34節を中心に読んでいきたいと思います。1回目は印刷して受付に置いてありますので読んでくだされば良いと思いますが、今一度振り返って、イエスの言葉の意味を確認しておきたいと思います。
この箇所はイエスの「山上の説教」の中で一つのクライマックスとも言われています。イエスはガリラヤの、おそらくは春の豊かな自然の中で、腰を下ろされると、[自分の命のこと]で[思い悩む]人々に語りかけたのでしょうか。この悩みは、一人の人が生活する中で抱く悩み全体を表現していますが、とくに[命]とは、肉体的な寿命だけではなくて、[魂](プシケー)という言葉であることから察すると、人が心の奥で抱く不安、心配、悩み、憂慮するといったその存在全体を表しています。そしてそれは、その命を与えた神との関係を問い直すことでしか、解決できない問題であることを示しているのではないかと思います。つまり、神との関係の中で、はじめて真の生きる意味や価値が与えられるということではないでしょうか。
イエスは、それをただ厳しく追及するばかりでなく、自分だけに向けられた関心を、一度そこから離れて、空の鳥、野の花に向け、思いを広げ、さらに転換するように導くのです。
30節までのところで、[野の花、空の鳥]が、神の必要かつ十分な恵みによって、あるがままで満たされ美しくそこにあることを確認しています。そしてそこからもう一度視点を自分の魂に戻します。他の被造物以上に、神との人格的な、応答関係にある人間に対して、神がそれ以上の恵みを下さらないはずがあろうか、と問いかけます。そして、31節でだから「思い悩まなくて良いではないか」という一つの結論に達します。
31節:は、これまでの展開をふまえてもう一度はじめの言葉に戻ります。イエスは、野の花空の鳥への視線から、再び人の日々の悩みとなっている食べ、飲み、着ることについて悩む人間自身へと視線と関心を戻します。神との関わりを失った、人間中心の、自己追求の態度に気付かせようと導くのです。他の被造物は、自然と創造主との関係の中で生かされているが、人間は、意識的に、努めて神へと心を向けようとしなければ、神との信頼的な関係をつくることはできない事を、心にとめなければなりません。神との、「わたしとあなた」という関係は、人間の方から主体的に応答していくことで、はじめてつくられていくのです。
32節:[異邦人]という言葉は、通常はユダヤ人以外の民族を指しますが、この文脈では、(ユダヤ人も含めて)神との関わりを失っている人皆を表しているといってよいでしょう。[必要なことをご存じ]は前回も話しましたが、祈りについて6章8節で「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」言われたことと同じです。思い悩みの大きな原因は、魂の渇きを、目先の何か物質的なもので満たそうとしたり、他者からの評価を受けたり、何らかの権力を持つことで何かを思い通りに動かそうとするといった、かき集めて保証を得るような生き方から来るものです。イエスはこうした生き方を「偽善」として問うてきました。そうして偽って、自分をより大きく見せようとしなくても、そのままであなたは十分であるということを伝えます。
33節:本当に必要なものは何かを知ることができないわたしたちに対して、[何よりもまず]求めるべきものは、[神の国と、神の義]だと示します。[まず]は順序のはじめではなくて、根本・中心を示しています。それは、人間的な欲望や価値観に基づいて求めかき集めようとする、人間の在り方への厳しい批判も含まれています。神の国と神の義は、根本的には同じ意味です。神の思い、神の意図が反映された世界の有り様ですが、このことはこの[山上の説教]の始まる5章の最初で語られてきました。[心の貧しい人たちは幸い…]で始まる箇所ですが、そこには[神の国]、の価値観が示されています。神の前には、人間的に評価を受けていなかったり、あるいはさまざまな痛みや悲しみのうちにある者も、等しく神の慰めのうちに置かれているということです。またここまで語られてきたのは、神の前に正しいことを忠実に行い、また小さくされた存在を受け容れること、また偽善に生きないこと等です。ただ神の前に忠実に生きることで、神はその人の必要を充分に満たしてくださるという、神との全幅の信頼関係を表しています。
34節:大変印象的な表現で最後を締めくくります。[明日のことを思い悩む]とは、明日のことだけでなく将来の保証を得ようとすることも含まれています。現在のわたしたちにとっても逼迫した課題ですが…。2千年前の聖書の時代においては、今日明日の食べ物は、生死と関わる問題でもあります。
このことばに関して、関連すると思われる出来事が、旧約書の出エジプト記のマナの話しがあります。荒れ野の40年の旅の際に、飢えに苦しみ神に食べ物を求め訴えたイスラエルの民に対して、神は天からのパンを与えます。指導者モーセは、その日一日家族が充分食べ満腹するに必要な量を集めるよう命じます。その日一日食べる分だけを集めるように命じますが、民の中には欲望がはたらき多く集めたり、次の日の分を取っておこうとする者がありました。しかし、壺に蓄えたマナは次の日の朝には腐って食べることができなかったのです。このマナによって、民は40年の間養われたとされています。それは荒れ野の明日の保証がないような過酷な旅においても、日々神が共にいてかれらを支えておられる、ということに信頼するよう教えたのでした。日毎の糧が神から与えられ、今日を生かされている恵みに感謝する、という信仰です。
また、この[明日]は直近の明日だけでなく、広く未来全般を表す言葉でもあります。どんな時代もわたしたちは明日の、まだ来ていない日々へ不安と恐れをいだいて生きています。今日を満ち足りた充分な一日として感謝することができないでいるのではないでしょうか。今日の一日は不十分だから明日はもっと頑張らなければいけない、と常に今日が否定される、今日という日を受け容れないままで毎日をかさねてしまっているのが現実かも知れません。
[その日の苦労だけで十分]というイエスの言葉は、人間がその日一日担うだけで精一杯の苦労と共に、日々生きていることを肯定している、認めているという意味で、慰めの言葉であると思います。わたしたちは任された仕事の労苦や、子育ての疲れと不安、病に耐えている一日や、高齢で様々なことがままならない生活、あるいは孤独に耐える一日、他者に理解されない心の痛み、そうした思うようにならない一日を送ってしまった失望感に置かれます。その一人への、イエスからのそれで十分とする慰めと、あるがままを良しとする肯定の言葉です。
また34節は、神学的な意味を考えると、「終末論」的な意味が含まれた言葉でもあります。聖書の時間は、終わりの日、神が始められた歴史を完成させる終末に向かって進んでいます。しかもそれがいつかは知らされていません。今日かも知れないし千年先かも知れない、その中間時をわたしたちは生きているのです。ですから、今日一日を終わりの日として生きる、ということでもあります。「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの苗木を植える」という格言があります。これまで宗教改革者ルターの言葉としてよく知られてきたものですが、不確かです。この格言について『ルターのりんごの木 -格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ-』という本も出版されています。この言葉の精神は、今日の聖書と関連付けると、今日を落胆の内に終えるのではなく、主イエスの祝福された一日として十分に生き切って、希望のうちに明日を迎えようとする、そこに神への信頼と平安があるということではないでしょうか。出来ればなすべき事を精一杯なして、できなければそれも神の前に価値ある一日として終えて、その日を終末の日として終える、そんな生き方へと導かれています。思い煩いのある世において、思い煩いのない神の国へと踏み出していくことです。わたしたちは誰も自分の肉体の終末を迎えねばなりませんが、この神に生かされた一日を、十分に生きることがイエスの願いでもあると思います。
主イエスは、こうしたわたしたちの「命のことで思い悩み、魂が渇いている」人間の現実に共感し、慰めを与えられるのですから、今日を生かされていることの意味と恵みを、感謝して受けとめていきたいと思います。そして、神との関係は、今日深い信頼を寄せたから、しばらくはそれが効果的にはたらいて恵みが長く続く、といったものではありません。神への信仰も、日々更新していくこと、この一日の中で十分な神との信頼関係を重ねていくように導かれています。
(西嶋佳弘)