命の悩み

礼拝説教 【聖 書 マタイによる福音書 6:25-34(その2)】

マタイによる福音書でイエスの「山上の説教」を学んでいますが、今日の箇所は一つのクライマックスを迎えます。5章1,2節で「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。]と、始まりますが、その場所にふさわしい話しとすれば、この箇所だけで、後は室内であろうが戸外であろうが関係ありません。ガリラヤの小高い丘の上で短い春を喜ぶかのように花が咲き乱れ、心地よい風が吹き渡り木々の葉を揺らし、小鳥のさえずりが聞こえてくる中で、草の上にイエスが腰を下ろすと群衆もまたその周りに座り、熱心にその言葉に耳を傾ける…などとその情景を想像するような、いわゆる「絵になる」場面です。並行記事のルカによる福音書では「平地の説教」で空の鳥はカラスですが…。
この箇所は、イエスの語る言葉の中でも最も美しい、良く知られた箇所ですが、まずは6章の文脈の中で読まなければなりません。6章全体のテーマは「偽善」でした。イエスは、ユダヤの人たちが、神に心から従うよりも、「律法」の規定への適応や人の評価に心を砕いている姿を、批判的にとらえて来ました。神への誠実さよりも、人間的な評価を得ようとすることについて「偽善」として厳しく問いました。祈りや断食、そして富について取り上げ、神に従うよりも富に仕える人間の姿を批判しました。前の段落では[神と富とに仕えることはできない]、それは不可能だとし、いかに人間が富や欲望に支配されて生きてしまう存在かを指摘してきました。律法の規程に縛られ、周囲の人や権威者の評価に左右されて生きているユダヤの人々の現実を、明らかにしています。それらから自由になり、ただ神に心=人格の中心を向けるよううながすのです。
25節:イエスは[だから言っておく]と始めます。そして最初が[思い悩むな]で始まる文章です。この語はこの段落では6回くり返し使われています。[思い悩むな]は人が心の奥で抱く不安、心配、悩み、憂慮するといった否定的な意味が強く出ています。前の箇所の神か富かの選択も、その一つでしょう。[命のこと]は、肉体的な寿命のことだけではなくて、[魂](プシケー)という言葉です。この語は、元は息(呼吸)に由来しますが、そこから命や魂の意味でも使われます。創世記2章で土の塵で形づくられた人が、神から息を吹き入れられたので生きる者となったとされます。この[生きる者]、そしてさらには[命]という意味で使われるようになったことに関係しているのです。[命]は神との関係の中で地上を生きるようにされている人間存在の全体を表す言葉です。ここでは[命のこと][体のこと]と、命と体の二つのことが挙げられていますが、これは別々のことではなくて、一人の人が生活する中で抱く悩み全体を表現しているのです。また、命と食べ物、体と衣服のどちらの方が大切かと問いかけますが、食べ物がなければ命は保てないし、衣服がなければ肉体を安全に保つことができません。厳密に分析すると二者択一の問題ではなく、矛盾してしまいますが、人が表面的な食べ物や着物の心配などに心を砕いている姿をあらわしています。
また、ユダヤの宗教的な生活においては、食べ物や着物の規程が細かく定められ、誰と食事をするのかということや、地位に見合う服装をすることで権威を示したりもしていました。そのような律法主義に縛られた社会の中で、評価を得るために腐心する人々があります。そうした人々への、批判的な言葉でもあるでしょう。
またそれは命の不安、渇きを埋めるために、あくせくと食べることや着ることに心を向けて、何らかの安心を得ようとしている人間の現実を指摘しているのです。さらに衣食住を安定させようと富をかき集める姿を含んでもいるでしょう。しかしイエスはそれ以上に、自分の魂の在り方、つまり生き方やその命の方向に思いを向けることができているかどうか、それを問いかけているのではないでしょうか。そして、命も、体も、神の創造の業の中で与えられているのだから、それを保つ方法もまた神に備えられるはずである、という神への信頼を示しています。
26節:このことに気付かせるために、イエスは視線を空へ向けさせ、また関心を周囲の自然へと導きます。鳥や花は神が創造された小さな命で、それらはただそこに存在するだけで神によって良しとされています。それらが神によって完全に養われている様へと目を向けさせます。「蒔く、刈る、倉に納める」は、この時代の農耕を営む男性の日常的な労働内容を表しています。人間の誰もがこのように働いて日々の命を保っていることは自明であるのに、それさえも鳥はしないで生きることができている。その小さな命に過ぎないものを神は養う方である、とイエスは言います。小さいものから大きいものへと展開していく論法を進めます。小さい鳥でさえこのように神に養われているのだから、ましてや鳥以上に神との関わりを持つことが出来るあなたがた人間は、それ以上の[価値あるもの]ではないか、と問いかけます。新しい訳では[優れたもの]となっています。その[価値]が何に由来しているのか。創世記1章27節の人間創造の記事で、神は人を[神にかたどって]創造されたとあります。この言葉は人が神の姿を映し出し、神が呼べば応えるような「応答関係」に置かれていることを意味します。そこに他の被造物に優(まさ)る人間の価値があることを見ているのです。逆の方向から考えれば、もし神の創造の恵みを思わず、神の意志に応えようとしないならば、人間の優位性は失われるということです。
27節:[寿命]を思い悩んで延ばせるかと問います。この寿命という語は身長(身の丈)とも訳せますが、文語訳では「汝らの中(うち)たれか思い煩ひて身の丈一尺を加えんや」です。命の長さは神の定めによるので、人がそれに手を加えることができない、という理解です。根本的にはそのとおりですが、現代はややその事情も変わってきていて、受け取った命を人の手(技術)で延長させていくこともある程度可能で、その是非が倫理的な問題にもなっています。新しい「命の思い煩い」の課題です。
28節:[衣服]と[野の花]とが対比させられます。[野の花]は文語訳では[野の百合は如何にして育つかを思え]と訳されていました。それで挿絵や紙芝居では、よく百合が描かれていました。花の種類を百合と限定して訳すのは問題があるので、「野の花」となっています。[衣服]は文字通りでは服装のことですが、人が外面的に着飾ることで権威を示そうとしたり財力を誇示しようとしたりして、本来の自分の姿をより良く見せ、人間的な評価や尊敬を得ようとすることをあらわしています。それは「偽善」の一つです。また[働く、紡ぐ]は当時の女性の一般的な労働を表しているようですが、そのような労苦のないままで、あるがままの美しさを野の花が神によって備えられていることを示します。
29節:それをさらに[栄華を極めたソロモン]とも比較されるのです。「ソロモンの栄華」とは、旧約書の列王紀上10章の記述に由来していますが、イスラエル歴史上最も経済的に繁栄したソロモン王の時代(紀元前10世紀)のことで、またその王の知恵がすばらしかったことで知られます。誰もが華やかですばらしいと認めるものでさえ及ばない、足元に咲く野の花一輪の美しさをたたえます。神の与える恵みの完全さを賛美します。
30節:さらに、野の花のはかなさを示しながら、そのようなすぐにその命を終えて灰に帰するような野の花でさえ、神は着飾ってくださるのだから、それよりもはるかに長く生きることができる命を与えた神は、なおさらその人間に対して十分な恵みを与えないはずがあろうか、というのです。自然の植物である花の美しさ、完全さを見ることで、それ以上に神と関わりを持つことが出来る人間に注がれる、その恵みに気づかせようとするイエスの意図があります。
この自然の中に神のはたらきを見て取ることについては、危険もあります。自然の内に神が宿る、自然と神とを一体化して考える「汎神論」という思想です。日本の神道もその範疇の一つです。しかし、ここでのイエスの意図は、あくまで神の意図のうちにある被造物として自然をとらえ、そこに創造者との深い関係性を認めようとするのです。
それが[信仰の薄い者たちよ]という呼びかけにあらわれています。[薄い]とは、小さい未熟なという意味です。[信仰]は、神との信頼的な関係、相互に求め合い、応答する関係にあることを表す言葉です。被造物の鳥や野の花を通して、それらに関わる神の意図を洞察します。そしてそれ以上に神の像(かたち)として創られ、また命の息が注がれて生きる者とされた、自分たち人間と神との関係をおもんばかるよう促します。そこにイエスの私たち人間への問いかけがあります。
31節:のここまでをまとめた言葉は、[思い煩い]は神との関わりを失った、人間中心の、自己追求の態度を深くえぐるような言葉です。それをただ厳しく追及するばかりでなく、自分だけに向けられた関心を空の鳥、野の花に向けて、思いを転換するように導く、そこにイエスのユーモアもあるのではないかと思います。
32節:[異邦人]が引き合いに出されますが、他民族というよりも、まだ神を知らない人々を意味しているでしょう。[必要なことをご存じ]は6:8の祈りについても同じ事が語られています。
ここまでの「思い悩み」を、6章の[偽善]という主題の中で考えたいと思います。本来は神に与えられ生かされている命・魂であり、神の前においてはそのことだけで十分であるはずです。しかしそれだけでは不十分で、経済的な豊かさや地位、権力、実績を上げることによって、命は確かにされる、命が富や様々な持ち物によって保障される、といった考え方がわたしたちの世界を覆っているのです。それらをイエスは「偽善」として問います。その偽善を維持するためにわたしたちは苦しみ、せかされ、要求されるのです。そうした重くのしかかるストレスを抱え、孤独が深まるわたしたちの姿と、今社会的な課題である「引きこもり」と言われる方々の現実とが重なっているように思います。これをテーマに書かれた朝日新聞の6/27津田大介さんの論壇時評で、法務省の報告書から、無差別殺傷事件が起きる要因について「(1)働いて賃金を得る、(2)人と共に生活する、(3)安定した住居がある、という基本的な生活経験の欠損が人の心にネガティブな影響を及ぼす」ことが示され、そのうえで人間関係の希薄さから生じる「孤独」の感情を個人の問題として処理するのではなく、社会問題として向き合うべきだとの主張が紹介されていました。社会から、そのままであってはいけないという、否定され続けるまなざしが、人を孤独に陥れ、社会的交わりを失わせているのでしょう。事件はあくまで極端な事例ですが、誰もが多かれ少なかれ同じ恐れや不安に取り囲まれているのではないでしょうか。高齢者もそうでしょう。
主イエスは、こうした人間の現実を「命のことで思い悩み、魂が渇いている」と見抜いています。それに対して、一人の人が、神の前で、その存在がありのままで肯定されている、然(しか)りとされていることを告げます。そのまなざしとなぐさめから「命の悩み」を解きほぐされ、今日生きており、生かされていることの意味と恵みを、受けとめていきたいと思います。 (西嶋佳弘)