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聖霊が教える
礼拝説教【聖書 ヨハネによる福音書14:17-27】
今日はキリスト教三大祝日の一つである、ペンテコステ・聖霊降臨日です。主イエスが十字架にかけられたのは、ユダヤの〈過越の祭〉の時でしたが、それから50日目がペンテコステ(五旬祭=50日祭)です。出エジプトから数えて50日目にシナイ山でモーセが十戒を与えられたことを記念する、律法授与記念日であり、またこれは麦の収穫を祝う収穫祭でもありました。ちょうどその日イエスの復活を信じて集まり祈りをささげていた人々の上に、主イエスから約束されていた聖霊が降り、外の人々へ向かって福音が公に語られるようになりました。この出来事は使徒言行録2章に記されています。注がれた聖霊によって力を得たイエスの弟子ペトロは、初めてキリストの福音を公に人々の前で説き明かします。つまり宣教する教会の始まり、教会の誕生日となりました。
聖書箇所はペンテコステに関する4箇所が選ばれていた中から、ヨハネによる福音書を選びました。ペンテコステそのものの記事は使徒言行録2章だけですが、「霊」または「聖霊」に関わる箇所は多数あります。先週はキリストの復活後40日目の〈昇天日〉(今年は5/21)について話しましたが、それ以降はキリストが天上=神のもとから「聖霊」をとおして教会と人々にはたらきかけ、神との関係が終末の日まで途切れることなく続くことを示しているのです。
15節:今日の箇所の見出しには[聖霊を与える約束]という見出しがついています。福音書の文脈では、イエスの十字架の死を前にした「告別説教」の中に置かれています。直前にイエスは[父のもとに行く]と予告しますが、この時点では弟子たちにはそれが何を意味するのかまだ理解できないでいるのです。しかしイエスは、もし弟子たち(=後の教会信徒らの意味も含む)が神との信頼関係を保ち続けるならば、姿は見えなくなっても[弁護者]を遣(つか)わし、父なる神が「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という約束をします。そしてそれが[聖霊]であることを明らかにします。[弁護者]は元々「傍(かたわ)らに呼び出す」という語に由来し、自分一人では対処できない苦難や問題に対して、「助け手」として呼び出される者という意味です。口語訳聖書では「助け主(ぬし)」と訳していました。傍らに立ちその人の相談を受け適切な支援をするのですが、その活動内容だけを指しているのではなく、精神的、心理的な面でその人を励ましたり勇気づけたりするという意味も含まれています。厳しい状態におかれた人のそばに来て慰め、その心、魂を支える者を意味しています。(こんにちの、その人の正当性を弁護し権利や利益を主張したり、罪や損害を軽減するために算段をするような意味の職業的弁護士とは異なります。もちろん弱い立場におかれた者の心情を汲み取り、正義のために活動することを使命と感じて活動する弁護士がおられることは言うまでもありません)。この[弁護者]の理想的な、そして具体的な姿は、イエスの活動において示されています。失われた者、支えなく排除された者の傍らに立ち、その一人の存在を回復する、真の弁護者としてのはたらきで、その人に生きる希望を与えるのです。
17節:しかしイエスはそうした弁護者としての自分自身ではなく、それに代わる「別の弁護者」すなわち[霊]を送ると言います。[真理の霊]の[霊]という用語は、風や息に由来する言葉で、見えず触れることはできないが確かな神の働きを表しています。ここでは特にイエスと等しい人格を持った[霊]を指しています。イエスはずっと肉体を持ったまま地上に居続けることはできないが、その代わりに[霊]=聖霊として[あなたがたの内に]一緒にいる、と約束するのです。それは、神がイエスを世へと遣わして救いの計画を明らかにしたように、また神は霊を人々の間に遣わして、自分の意志を実現しようとしている、ということです。
18節:[みなしご]=孤児という言葉が使われますが、親、保護する者がいないことです。ここはその背景としてこの福音書が読まれた紀元100年前後の頃の教会の状況を考えておくべきでしょう。イエスの地上での活動から70年ばかりが経過し、弟子たちなど直接イエスを知る者もいなくなります。そして終末(世の終わりの日)が近いとその完成の時を緊張の中で待っていてもなかなかそれは来ない、周囲からの圧迫や迫害も起きている中で、キリスト者たちは「本当に神は、イエス・キリストはわたしたちの内に居られるのか」といった不安や疑いが生じていたことが考えられます。これは「神を試みる」=「まことに神はわたしたちの内に居ますか」という問いです。これはイスラエルの民が出エジプト後の荒野の40年間や、バビロン捕囚の50年間において経験した同じ信仰的テーマです。この問いへ答えるイエスの言葉でもあります。みなしごにしない、そんな孤立無援の状態のまま放っては置かないと、イエスの側からの強い決断を持った宣言、そして約束として語られています。その約束を受け容れた者は、イエスとの霊による深い関係の内に置かれるというのです。
19節:[しばらくすると世はわたしを見なくなるが、あなたがたは見る]とは、視覚的な[見る]ではなく、認識する、心の内に確かなものとして理解するという意味です。福音書の文脈ではこの後、イエスは十字架の死によって失われます。[世は…わたしを見なくなる]は、肉体の死という意味だけでなく、人間的な価値観(見えるものや肉体的、物質的なものだけを基準に物事を判断するような考え)においてはイエスを認めなくなる、という意味が含まれています。しかし[あなたがたは見る]は、イエスを信じる者は、やがて復活のキリストに出合うということをあらわしています。そしてさらに、その後の聖霊を通しての来臨を展望する言葉となっています。最終的には、終末時の再臨も視野に入れられています。それが一時的なイエスとの再会ではなくて、[わたしが生きているので、あなたがたも生きる]と言うように、イエスは生き続け、霊を送って[あなたがた]力を与え続けるので、あなたがたも生きる、とイエスの復活の命と信仰者の霊的な命がつながっていることが示されています。このことを次の節から順次重ねて展開していきます。
20、21節以下:この部分を少しまとめて話しますと、イエスが神の内にいる、イエスの内に信徒がいればイエスも信徒のうちにいる。そして、イエスの掟(教え)を守る人はイエスの愛の内にいるし、神はその人を愛するし、またイエスもその人を愛す。このように神、イエス、人の、互いが自分の内に相手がおり、相手の内に自分がいてつながり合っている、という関係です。ここでの[愛]はギリシャ語では神の愛について用いられる「アガペー」で、神の完全でしかも無償の愛を表していますから、神とのそのような愛の関係が結ばれることを示しています。こうした愛による神との相互的な関係こそが、「信仰」(信頼的関係)ということなのですが、文中では特に[愛する]というイエスの表した愛の具体的な行いにそれが依拠していることが強調されています。
22節:ここで突然弟子のユダ(イエスを裏切ったユダ以外にもう一人のユダという名前の弟子が、ルカとヨハネには記されています)が質問します。(復活の)イエスはなぜ弟子たちだけに現れて、世のすべての人に自分をあらわさないのですか?という問いです。これは17節とも関係しているのですが、世の中に復活のイエスが現れてすべての人を裁いてくれればよいのに、という現世的(この世的)なメシア到来への期待です。それは困難に直面した時に、メシア、神が来て一気に問題を解決してくれればよいのに、という期待です。そんな期待がわたしたちの内にもあるかも知れません。この問いにイエスは直接答えてはいません。
23節以下:で、わたし=イエスを愛し、その言葉を忠実に行っていくことへと導きます。あたかも、神に願って苦境を一気に救ってもらおうと期待することでなく、今あなたの前にある課題に神の愛をもって関わっていく、ひたむきに愛の実践を信徒たちがなしていくために、そのわざを勇気づける聖霊を送っているということではないでしょうか。
26節:[弁護者]としての聖霊が、それを受けた人々に全てのことを教え、イエスの語ったことを思い起こさせる、という言葉は、(使徒言行録2章の)聖霊降臨日の体験と結びつけられています。そしてまた、「イエスが話したことを思い起こさせる」というのは、イエスの復活信仰を表現しています。復活信仰が、ただ単に死んだイエスが生き返ったという過去の出来事の承認ではなく、イエスの教えを自分の心の内に受け入れ、それを今まさに、自分にイエスが語りかけていると感じとって具体的に行おうとすることであり、それが生きた復活信仰であることを示しています。
27節:まとめの部分で、聖霊がもたらすのは[平和]、イエスが示した天の国の平和であることが示されます。それは心の内の平和であり、また終末的なあらゆる存在が神に祝福されて喜んでいる状態の包括的な平和です。ここではギリシャ語のエイレーネーという語ですが、ヘブライ語のシャロームという言葉と等しい意味です。この節でも、[世]=すなわち人間的な平和ではないことが言われます。当時の「ローマによる平和」(Pax Romana)と呼ばれた圧倒的な権力・軍事力による支配的な平和とは、全く質の異なる平和であることが批判的に確認されています。この直前の箇所では、イエスは弟子の足を洗い、このように互いに仕え合いなさいと教えます。このあとにはぶどうの木の譬えが語られ、イエスにつながっていることでよい実を結ぶことが示されています。このように互いが愛をもって仕え合うなかにイエスは共にあり、神と人とが霊的な糧によって結びつき力づけられていることが教えられています。そこに真の平和があるのです。
見えるもの、手のうちに利益として得るもの以外に関心が薄れているわたしたちの現実です。物質的な保障によって安心を確保しようと右往左往する日々です。ペンテコステのこの日、神、主イエスとの霊的なつながり、他の被造物との命の霊的なつながりの中でわたしたちが生かされていることに心を向ける時としたいと思います。相互に愛を注ぎ合い、仕え合う中で、互いを満たし合うような生き方が求められています。そしてわたしたちは神からの弁護者、聖霊の力を受けて、イエスの愛によって平和を創り出すよう導かれています。この恵みを受け、生かしていきたいと思います。
(西嶋佳弘)
その日の労苦
礼拝説教【聖書 マタイによる福音書 6:25-34】
マタイによる福音書では続けてイエスの「山上の説教」を学んでいます。今日の箇所は6/30に既に一度取り上げましたが、32節までとしていましたので、今日は33,34節を中心に読んでいきたいと思います。1回目は印刷して受付に置いてありますので読んでくだされば良いと思いますが、今一度振り返って、イエスの言葉の意味を確認しておきたいと思います。
この箇所はイエスの「山上の説教」の中で一つのクライマックスとも言われています。イエスはガリラヤの、おそらくは春の豊かな自然の中で、腰を下ろされると、[自分の命のこと]で[思い悩む]人々に語りかけたのでしょうか。この悩みは、一人の人が生活する中で抱く悩み全体を表現していますが、とくに[命]とは、肉体的な寿命だけではなくて、[魂](プシケー)という言葉であることから察すると、人が心の奥で抱く不安、心配、悩み、憂慮するといったその存在全体を表しています。そしてそれは、その命を与えた神との関係を問い直すことでしか、解決できない問題であることを示しているのではないかと思います。つまり、神との関係の中で、はじめて真の生きる意味や価値が与えられるということではないでしょうか。
イエスは、それをただ厳しく追及するばかりでなく、自分だけに向けられた関心を、一度そこから離れて、空の鳥、野の花に向け、思いを広げ、さらに転換するように導くのです。
30節までのところで、[野の花、空の鳥]が、神の必要かつ十分な恵みによって、あるがままで満たされ美しくそこにあることを確認しています。そしてそこからもう一度視点を自分の魂に戻します。他の被造物以上に、神との人格的な、応答関係にある人間に対して、神がそれ以上の恵みを下さらないはずがあろうか、と問いかけます。そして、31節でだから「思い悩まなくて良いではないか」という一つの結論に達します。
31節:は、これまでの展開をふまえてもう一度はじめの言葉に戻ります。イエスは、野の花空の鳥への視線から、再び人の日々の悩みとなっている食べ、飲み、着ることについて悩む人間自身へと視線と関心を戻します。神との関わりを失った、人間中心の、自己追求の態度に気付かせようと導くのです。他の被造物は、自然と創造主との関係の中で生かされているが、人間は、意識的に、努めて神へと心を向けようとしなければ、神との信頼的な関係をつくることはできない事を、心にとめなければなりません。神との、「わたしとあなた」という関係は、人間の方から主体的に応答していくことで、はじめてつくられていくのです。
32節:[異邦人]という言葉は、通常はユダヤ人以外の民族を指しますが、この文脈では、(ユダヤ人も含めて)神との関わりを失っている人皆を表しているといってよいでしょう。[必要なことをご存じ]は前回も話しましたが、祈りについて6章8節で「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」言われたことと同じです。思い悩みの大きな原因は、魂の渇きを、目先の何か物質的なもので満たそうとしたり、他者からの評価を受けたり、何らかの権力を持つことで何かを思い通りに動かそうとするといった、かき集めて保証を得るような生き方から来るものです。イエスはこうした生き方を「偽善」として問うてきました。そうして偽って、自分をより大きく見せようとしなくても、そのままであなたは十分であるということを伝えます。
33節:本当に必要なものは何かを知ることができないわたしたちに対して、[何よりもまず]求めるべきものは、[神の国と、神の義]だと示します。[まず]は順序のはじめではなくて、根本・中心を示しています。それは、人間的な欲望や価値観に基づいて求めかき集めようとする、人間の在り方への厳しい批判も含まれています。神の国と神の義は、根本的には同じ意味です。神の思い、神の意図が反映された世界の有り様ですが、このことはこの[山上の説教]の始まる5章の最初で語られてきました。[心の貧しい人たちは幸い…]で始まる箇所ですが、そこには[神の国]、の価値観が示されています。神の前には、人間的に評価を受けていなかったり、あるいはさまざまな痛みや悲しみのうちにある者も、等しく神の慰めのうちに置かれているということです。またここまで語られてきたのは、神の前に正しいことを忠実に行い、また小さくされた存在を受け容れること、また偽善に生きないこと等です。ただ神の前に忠実に生きることで、神はその人の必要を充分に満たしてくださるという、神との全幅の信頼関係を表しています。
34節:大変印象的な表現で最後を締めくくります。[明日のことを思い悩む]とは、明日のことだけでなく将来の保証を得ようとすることも含まれています。現在のわたしたちにとっても逼迫した課題ですが…。2千年前の聖書の時代においては、今日明日の食べ物は、生死と関わる問題でもあります。
このことばに関して、関連すると思われる出来事が、旧約書の出エジプト記のマナの話しがあります。荒れ野の40年の旅の際に、飢えに苦しみ神に食べ物を求め訴えたイスラエルの民に対して、神は天からのパンを与えます。指導者モーセは、その日一日家族が充分食べ満腹するに必要な量を集めるよう命じます。その日一日食べる分だけを集めるように命じますが、民の中には欲望がはたらき多く集めたり、次の日の分を取っておこうとする者がありました。しかし、壺に蓄えたマナは次の日の朝には腐って食べることができなかったのです。このマナによって、民は40年の間養われたとされています。それは荒れ野の明日の保証がないような過酷な旅においても、日々神が共にいてかれらを支えておられる、ということに信頼するよう教えたのでした。日毎の糧が神から与えられ、今日を生かされている恵みに感謝する、という信仰です。
また、この[明日]は直近の明日だけでなく、広く未来全般を表す言葉でもあります。どんな時代もわたしたちは明日の、まだ来ていない日々へ不安と恐れをいだいて生きています。今日を満ち足りた充分な一日として感謝することができないでいるのではないでしょうか。今日の一日は不十分だから明日はもっと頑張らなければいけない、と常に今日が否定される、今日という日を受け容れないままで毎日をかさねてしまっているのが現実かも知れません。
[その日の苦労だけで十分]というイエスの言葉は、人間がその日一日担うだけで精一杯の苦労と共に、日々生きていることを肯定している、認めているという意味で、慰めの言葉であると思います。わたしたちは任された仕事の労苦や、子育ての疲れと不安、病に耐えている一日や、高齢で様々なことがままならない生活、あるいは孤独に耐える一日、他者に理解されない心の痛み、そうした思うようにならない一日を送ってしまった失望感に置かれます。その一人への、イエスからのそれで十分とする慰めと、あるがままを良しとする肯定の言葉です。
また34節は、神学的な意味を考えると、「終末論」的な意味が含まれた言葉でもあります。聖書の時間は、終わりの日、神が始められた歴史を完成させる終末に向かって進んでいます。しかもそれがいつかは知らされていません。今日かも知れないし千年先かも知れない、その中間時をわたしたちは生きているのです。ですから、今日一日を終わりの日として生きる、ということでもあります。「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの苗木を植える」という格言があります。これまで宗教改革者ルターの言葉としてよく知られてきたものですが、不確かです。この格言について『ルターのりんごの木 -格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ-』という本も出版されています。この言葉の精神は、今日の聖書と関連付けると、今日を落胆の内に終えるのではなく、主イエスの祝福された一日として十分に生き切って、希望のうちに明日を迎えようとする、そこに神への信頼と平安があるということではないでしょうか。出来ればなすべき事を精一杯なして、できなければそれも神の前に価値ある一日として終えて、その日を終末の日として終える、そんな生き方へと導かれています。思い煩いのある世において、思い煩いのない神の国へと踏み出していくことです。わたしたちは誰も自分の肉体の終末を迎えねばなりませんが、この神に生かされた一日を、十分に生きることがイエスの願いでもあると思います。
主イエスは、こうしたわたしたちの「命のことで思い悩み、魂が渇いている」人間の現実に共感し、慰めを与えられるのですから、今日を生かされていることの意味と恵みを、感謝して受けとめていきたいと思います。そして、神との関係は、今日深い信頼を寄せたから、しばらくはそれが効果的にはたらいて恵みが長く続く、といったものではありません。神への信仰も、日々更新していくこと、この一日の中で十分な神との信頼関係を重ねていくように導かれています。
(西嶋佳弘)
命の悩み
礼拝説教 【聖 書 マタイによる福音書 6:25-34(その2)】
マタイによる福音書でイエスの「山上の説教」を学んでいますが、今日の箇所は一つのクライマックスを迎えます。5章1,2節で「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。]と、始まりますが、その場所にふさわしい話しとすれば、この箇所だけで、後は室内であろうが戸外であろうが関係ありません。ガリラヤの小高い丘の上で短い春を喜ぶかのように花が咲き乱れ、心地よい風が吹き渡り木々の葉を揺らし、小鳥のさえずりが聞こえてくる中で、草の上にイエスが腰を下ろすと群衆もまたその周りに座り、熱心にその言葉に耳を傾ける…などとその情景を想像するような、いわゆる「絵になる」場面です。並行記事のルカによる福音書では「平地の説教」で空の鳥はカラスですが…。
この箇所は、イエスの語る言葉の中でも最も美しい、良く知られた箇所ですが、まずは6章の文脈の中で読まなければなりません。6章全体のテーマは「偽善」でした。イエスは、ユダヤの人たちが、神に心から従うよりも、「律法」の規定への適応や人の評価に心を砕いている姿を、批判的にとらえて来ました。神への誠実さよりも、人間的な評価を得ようとすることについて「偽善」として厳しく問いました。祈りや断食、そして富について取り上げ、神に従うよりも富に仕える人間の姿を批判しました。前の段落では[神と富とに仕えることはできない]、それは不可能だとし、いかに人間が富や欲望に支配されて生きてしまう存在かを指摘してきました。律法の規程に縛られ、周囲の人や権威者の評価に左右されて生きているユダヤの人々の現実を、明らかにしています。それらから自由になり、ただ神に心=人格の中心を向けるよううながすのです。
25節:イエスは[だから言っておく]と始めます。そして最初が[思い悩むな]で始まる文章です。この語はこの段落では6回くり返し使われています。[思い悩むな]は人が心の奥で抱く不安、心配、悩み、憂慮するといった否定的な意味が強く出ています。前の箇所の神か富かの選択も、その一つでしょう。[命のこと]は、肉体的な寿命のことだけではなくて、[魂](プシケー)という言葉です。この語は、元は息(呼吸)に由来しますが、そこから命や魂の意味でも使われます。創世記2章で土の塵で形づくられた人が、神から息を吹き入れられたので生きる者となったとされます。この[生きる者]、そしてさらには[命]という意味で使われるようになったことに関係しているのです。[命]は神との関係の中で地上を生きるようにされている人間存在の全体を表す言葉です。ここでは[命のこと][体のこと]と、命と体の二つのことが挙げられていますが、これは別々のことではなくて、一人の人が生活する中で抱く悩み全体を表現しているのです。また、命と食べ物、体と衣服のどちらの方が大切かと問いかけますが、食べ物がなければ命は保てないし、衣服がなければ肉体を安全に保つことができません。厳密に分析すると二者択一の問題ではなく、矛盾してしまいますが、人が表面的な食べ物や着物の心配などに心を砕いている姿をあらわしています。
また、ユダヤの宗教的な生活においては、食べ物や着物の規程が細かく定められ、誰と食事をするのかということや、地位に見合う服装をすることで権威を示したりもしていました。そのような律法主義に縛られた社会の中で、評価を得るために腐心する人々があります。そうした人々への、批判的な言葉でもあるでしょう。
またそれは命の不安、渇きを埋めるために、あくせくと食べることや着ることに心を向けて、何らかの安心を得ようとしている人間の現実を指摘しているのです。さらに衣食住を安定させようと富をかき集める姿を含んでもいるでしょう。しかしイエスはそれ以上に、自分の魂の在り方、つまり生き方やその命の方向に思いを向けることができているかどうか、それを問いかけているのではないでしょうか。そして、命も、体も、神の創造の業の中で与えられているのだから、それを保つ方法もまた神に備えられるはずである、という神への信頼を示しています。
26節:このことに気付かせるために、イエスは視線を空へ向けさせ、また関心を周囲の自然へと導きます。鳥や花は神が創造された小さな命で、それらはただそこに存在するだけで神によって良しとされています。それらが神によって完全に養われている様へと目を向けさせます。「蒔く、刈る、倉に納める」は、この時代の農耕を営む男性の日常的な労働内容を表しています。人間の誰もがこのように働いて日々の命を保っていることは自明であるのに、それさえも鳥はしないで生きることができている。その小さな命に過ぎないものを神は養う方である、とイエスは言います。小さいものから大きいものへと展開していく論法を進めます。小さい鳥でさえこのように神に養われているのだから、ましてや鳥以上に神との関わりを持つことが出来るあなたがた人間は、それ以上の[価値あるもの]ではないか、と問いかけます。新しい訳では[優れたもの]となっています。その[価値]が何に由来しているのか。創世記1章27節の人間創造の記事で、神は人を[神にかたどって]創造されたとあります。この言葉は人が神の姿を映し出し、神が呼べば応えるような「応答関係」に置かれていることを意味します。そこに他の被造物に優(まさ)る人間の価値があることを見ているのです。逆の方向から考えれば、もし神の創造の恵みを思わず、神の意志に応えようとしないならば、人間の優位性は失われるということです。
27節:[寿命]を思い悩んで延ばせるかと問います。この寿命という語は身長(身の丈)とも訳せますが、文語訳では「汝らの中(うち)たれか思い煩ひて身の丈一尺を加えんや」です。命の長さは神の定めによるので、人がそれに手を加えることができない、という理解です。根本的にはそのとおりですが、現代はややその事情も変わってきていて、受け取った命を人の手(技術)で延長させていくこともある程度可能で、その是非が倫理的な問題にもなっています。新しい「命の思い煩い」の課題です。
28節:[衣服]と[野の花]とが対比させられます。[野の花]は文語訳では[野の百合は如何にして育つかを思え]と訳されていました。それで挿絵や紙芝居では、よく百合が描かれていました。花の種類を百合と限定して訳すのは問題があるので、「野の花」となっています。[衣服]は文字通りでは服装のことですが、人が外面的に着飾ることで権威を示そうとしたり財力を誇示しようとしたりして、本来の自分の姿をより良く見せ、人間的な評価や尊敬を得ようとすることをあらわしています。それは「偽善」の一つです。また[働く、紡ぐ]は当時の女性の一般的な労働を表しているようですが、そのような労苦のないままで、あるがままの美しさを野の花が神によって備えられていることを示します。
29節:それをさらに[栄華を極めたソロモン]とも比較されるのです。「ソロモンの栄華」とは、旧約書の列王紀上10章の記述に由来していますが、イスラエル歴史上最も経済的に繁栄したソロモン王の時代(紀元前10世紀)のことで、またその王の知恵がすばらしかったことで知られます。誰もが華やかですばらしいと認めるものでさえ及ばない、足元に咲く野の花一輪の美しさをたたえます。神の与える恵みの完全さを賛美します。
30節:さらに、野の花のはかなさを示しながら、そのようなすぐにその命を終えて灰に帰するような野の花でさえ、神は着飾ってくださるのだから、それよりもはるかに長く生きることができる命を与えた神は、なおさらその人間に対して十分な恵みを与えないはずがあろうか、というのです。自然の植物である花の美しさ、完全さを見ることで、それ以上に神と関わりを持つことが出来る人間に注がれる、その恵みに気づかせようとするイエスの意図があります。
この自然の中に神のはたらきを見て取ることについては、危険もあります。自然の内に神が宿る、自然と神とを一体化して考える「汎神論」という思想です。日本の神道もその範疇の一つです。しかし、ここでのイエスの意図は、あくまで神の意図のうちにある被造物として自然をとらえ、そこに創造者との深い関係性を認めようとするのです。
それが[信仰の薄い者たちよ]という呼びかけにあらわれています。[薄い]とは、小さい未熟なという意味です。[信仰]は、神との信頼的な関係、相互に求め合い、応答する関係にあることを表す言葉です。被造物の鳥や野の花を通して、それらに関わる神の意図を洞察します。そしてそれ以上に神の像(かたち)として創られ、また命の息が注がれて生きる者とされた、自分たち人間と神との関係をおもんばかるよう促します。そこにイエスの私たち人間への問いかけがあります。
31節:のここまでをまとめた言葉は、[思い煩い]は神との関わりを失った、人間中心の、自己追求の態度を深くえぐるような言葉です。それをただ厳しく追及するばかりでなく、自分だけに向けられた関心を空の鳥、野の花に向けて、思いを転換するように導く、そこにイエスのユーモアもあるのではないかと思います。
32節:[異邦人]が引き合いに出されますが、他民族というよりも、まだ神を知らない人々を意味しているでしょう。[必要なことをご存じ]は6:8の祈りについても同じ事が語られています。
ここまでの「思い悩み」を、6章の[偽善]という主題の中で考えたいと思います。本来は神に与えられ生かされている命・魂であり、神の前においてはそのことだけで十分であるはずです。しかしそれだけでは不十分で、経済的な豊かさや地位、権力、実績を上げることによって、命は確かにされる、命が富や様々な持ち物によって保障される、といった考え方がわたしたちの世界を覆っているのです。それらをイエスは「偽善」として問います。その偽善を維持するためにわたしたちは苦しみ、せかされ、要求されるのです。そうした重くのしかかるストレスを抱え、孤独が深まるわたしたちの姿と、今社会的な課題である「引きこもり」と言われる方々の現実とが重なっているように思います。これをテーマに書かれた朝日新聞の6/27津田大介さんの論壇時評で、法務省の報告書から、無差別殺傷事件が起きる要因について「(1)働いて賃金を得る、(2)人と共に生活する、(3)安定した住居がある、という基本的な生活経験の欠損が人の心にネガティブな影響を及ぼす」ことが示され、そのうえで人間関係の希薄さから生じる「孤独」の感情を個人の問題として処理するのではなく、社会問題として向き合うべきだとの主張が紹介されていました。社会から、そのままであってはいけないという、否定され続けるまなざしが、人を孤独に陥れ、社会的交わりを失わせているのでしょう。事件はあくまで極端な事例ですが、誰もが多かれ少なかれ同じ恐れや不安に取り囲まれているのではないでしょうか。高齢者もそうでしょう。
主イエスは、こうした人間の現実を「命のことで思い悩み、魂が渇いている」と見抜いています。それに対して、一人の人が、神の前で、その存在がありのままで肯定されている、然(しか)りとされていることを告げます。そのまなざしとなぐさめから「命の悩み」を解きほぐされ、今日生きており、生かされていることの意味と恵みを、受けとめていきたいと思います。 (西嶋佳弘)